『新名荘というものがあった、という記述は延陵世鑑にも書いてある』
とみやざきの姓氏に書かれているけれど、
さて、どういう事が書かれているのかは定かではなかったのでした。
まずは国立歴史民俗博物館へアクセスし、新名荘についての記述を探してみました。
参考市町村 : 比定地未詳 注文案では「国中無此名字歟,若為新納院者非闕所」 参考市町村 : 宮崎市町村コード: 45201
明治村字 : 新名郷
初見年和暦 : 正平二年初見年西暦: 1347
出 典 : 阿蘇文書
関係文献 : 無
地名辞典 : 角川地名庄号なし→新名=年末詳恵良惟澄注進闕所中指合所領
= 臼杵郡の内=延岡市、日向市、周辺か不明確
明治村字 : 新名爪
領家・本家 : 宇佐八幡宮領
初見年和暦 : 安元二年初見年西暦: 1176
出 典 : 奈多八幡縁起私記・図田帳・宇佐大鏡・旧元集
関係文献 : 無
地名辞典 : 角川地名=新名爪川流域=「宇佐大鏡」によると治暦2年開発
備 考 : 建久図田帳=80丁、弁済使土持太郎宣綱
宮崎市に在る新名爪(町名)も、荘園であったというのを初めて知りました。
年代も上記、新名庄よりも古く、未だにこの地名は使われています。
さて、はじめにある新名庄について、
「国中無此名字歟,若為新納院者非闕所」=臼杵郡の内=延岡市、日向市、周辺か不明確
という記述がありますが、1998年に発行された『宮崎県史 通史編 中世』の172・173頁の「新名」「浮目」「大貫」「伊富形」の項において以下の様に訂正されました。
島津荘「新名 ニイナ」「浮目 ウキメ」「大貫 ヲウヌキ」「伊富形 イガタ」は、臼杵郡のうち「島津御庄領南郷」とみえ、今山八幡宮の社役を対捍していたことが伝えられている(『宇佐宮神領大鏡』中2−到津一号)。延岡市内の五ヶ瀬川南岸に当たる「大貫」「伊富(福)形」地域とみられる。「新名・浮目」は島津荘寄郡で唯一、島津忠久が地頭でない荘である。
『旧記』にみえる今山八幡宮の社役に「新名分」として「三輪・伊富形・大貫」が含まれているが、これは「新名五十丁」が代表する一方の「河北分」(県荘・岡富別府など)に対応する呼称であって、いわゆる単一の荘名「新名」そのものではないであろう(中1−今山八幡宮1号)。その社役として、十二世紀には「三和(輪)」のほか「井手北」「櫛津」「三須」(いずれも延岡市内)などもみられるので、『図田帳』にみえる「新名」と「浮目」がこれを含むことが考えられる。「浮目」は浮免を意味する散在する荘ではないかと考えられる。「新名」は近代初期まで「新名小路」「時に天正五年の冬、九州日向国臼杵新名村佛日山願成寺と云々」とみえ成願寺(延岡市新小路二丁目)のある地が「臼杵郡新名村」の名が残っている事を考えれば、県土持氏の有力家臣であった新名氏の本貫地とみられ、県土持氏が拠った井上城あとに近い恒富地方ではないかと思われる(『思文閣古書資料目録』一一二 昭和六十年)。=中略=
このように県地方においては、五ヶ瀬川をはさんで北に伊東氏、南に中原親能と島津忠久という有力御家人が地頭として配されていたことになる。やがて「臼杵院」の呼称が用いられその中に含まれるようになる。
宮崎県史 通史編 中世 第1章 武家社会成立期の日向の国 第2節 日向国の荘園・公領 より引用
日向国の荘園と公領
(p5 表1-1より抜粋)
上記で紹介している宮崎県史では、新名の田数も記載されています。
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延岡市(大瀬川南岸恒富付近) |
(かもんのかみ殿) |
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宮崎市大字新名爪・同芳仕 |
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弁済使土持太郎宣綱 |
この『日向国図田帳』と同じ頃に作成された薩摩国・大隅国の図田帳の内容は、
公領についての記載等が日向のものよりも充実しているそうです。
他の資料でも日向のそれは不十分であり、どうやら日向の領主は遠隔地という事もあり、
鎌倉幕府の言い付けにあまり従わず、好き勝手にしていたか?と思われる筋もあるけれど、
実際、日向国内は土持氏が実権を握り始めた時期でもあるらしいですね。
つまり政情不安定な時期に作成され、
そういう時は資料を残す云々いってる場合ではないのでしょうか。
「島津荘「
さて、島津荘とは何時頃開発されたものなのだろう。
島津とは、現在の都城市周辺の荒れ地であったようで、まだ誰の土地でもなく、
万寿3(1026)年に太宰大監平季基(だざいだいげん・たいらのすえもと:備前系平氏)が
親類縁者の協力を得て開拓し、当時の関白藤原頼通(かんぱく・ふじわらよりみち)
に保護を求めて寄進し、そこが島津荘の誕生となったようです。
そしてその後も次々と開拓を続け、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて
日向・大隅・薩摩にまたがる広大な荘園であったとか。
時は流れ、文治元年(1185)源頼朝が壇の浦で平氏を叩き潰し、
平家側の勢力が尚残る南九州へ、島津忠久を荘園の復旧をはかるため、
摂関家領島津荘下司職(げししき)に任命する。
これは元暦2年(1185)の『吾妻鏡』によると、
先に特命を受けた中原久経・藤原国平の補任という形のようです。
その後、忠久は地頭職にも就き、島津荘を実質取り仕切る事になったのであります。
しかし今まで平家の息が掛かり、鎌倉幕府に反発してなかなか手に負えぬ領民を
静かにさせるのは苦労が多かったみたいですね。
さて、忠久は島津荘の地頭から引きずり落とされる事態に巻き込まれるのであった。
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「比企氏の乱「
建武3年(1203)の事、源頼朝の息子・頼家と、
嫁の父親である比企能員(ひきよしかず)等が同じ外戚の北条氏を倒そうとした。
しかしその企ては呆気無く、北条氏にしてやられてしまったのです。
ここからが問題!
そこで騒動に巻き込まれたのは比企氏の親類たちでした。
忠久は比企氏の親類らしく、頼朝、いや北条政子の
怒りをかったのだろう彼も含めて比企氏の親類たちは、所領を没収されてしまうのでした。
忠久がしていた地頭職等も全て無くなってしまったが、
10年後の建暦3年(1213)の和田合戦で、良い働きをしたのでしょう
忠久は恩賞を受け、薩摩側の島津荘は取り戻したのです。
しかしその後、日向や大隅の島津荘を手に入れることはなかった。。。。
他は北条氏の所領となった様で、最近の研究からは北条義時の三男・重時が
日向国守護職をとったのではないかと思われるそうです。
それでも現在、薩摩の島津家と名が残っていますもんね。凄い事です、まったく。