島津忠久:しまづただひさ 生年:不祥
左兵衛少尉惟宗忠久(さひょうえ しょうじょう これむね ただひさ)
『島津氏正統系図』によれば、島津忠久は源頼朝の庶長子で治承3年(1179)の生まれ、母は頼朝の乳母比企尼(めのと ひきのあま)の女(むすめ)丹後内侍(たんごの ないし)、養父は惟宗広言(これむね ひろとき)、烏帽子親は畠山重忠(はたけやま しげただ)、その女(むすめ)を室とし、はじめ左兵衛尉(さひょうえのじょう)、左衛門尉を経て晩年に検非違使尉(けびいしじょう)となり、豊後守となり、嘉禄3年(1227)死去、49才とある。しかし、これは長年に渡り修飾創作、江戸幕府の系譜提出命令に応じてさらに修正が加えられた成果であり、すべてをそのまま史実とは認め難い。
・
・
・
・
現在のところ明らかになっていることは、島津氏の名は島津荘の下司職に就職したことによって後年に用いられたもので、当初は惟宗(これむね)氏(本姓)を多用、藤原氏は承久の乱後に使用、生年は不祥、没年齢は10数年上か(注:『島津氏正統系図』による没年齢より)、市来氏との系図相論からみて実父惟宗忠康(これむね ただやす)の存在が有力で、惟宗広言は養父の可能性あり、比企尼(頼朝の乳母)との親縁関係が深く、母は比企氏、近衛家下家司(このえけ げけいし)の出自、若狭忠季(わかさ ただすえ)も比企氏との関係深く、忠季は兄弟、比企氏並びに近衛家・惟宗広言等の縁で頼朝に近侍し、信濃国塩田荘地頭、伊勢国波出御厨・須可荘地頭を経て、摂関家領島津荘の下司職ついで地頭職、荘目代、押領使職ともなる。畠山氏と親縁関係あり、重忠の婿ではなく子の忠時が婿かとみられ、晩年に検非違使・大夫判官(たいふはんがん)・豊後守に補任と、その履歴からもうかがえる文化人的素養の持ち主であったこと等々があげられよう。
宮崎県史 通史編 中世 p21〜23より抜粋引用
彼の生い立ちはなかなかミステリアスなようである。
サーチエンジンで彼の名前を検索し、全てに目を通せば混乱する事間違い無し!
なのです。