中原親能
なかはら ちかよし:1143〜1208年
鎌倉幕府・御家人
掃部頭殿(かもんのかみ殿)と日向国図田帳に記されているのが彼である。
中原親能は大江姓で平安時代の代表的な学者であった大江匡房(おおえ まさふさ:1041〜1111)の子孫であり、大江広元と兄弟ともいわれ、法律の専門家であった明法博士中原家の養子となって、中原姓を称するようになったという。
源頼朝の腹心となって大江広元とともに草創期の鎌倉幕政に参与した。その後、頼朝の代官として源義経とともに上洛し、以後、京と鎌倉幕府の間を東奔西走した。文治元年(1185)には源範頼に従って平家追討のため周防国(山口県)から豊後国(大分県)に渡り、鎮西各地を転戦している。その後は鎌倉で頼朝の側近として重用されている。その所領所職は全国に散在していた。九州だけでも日向国五ケ所のほか豊後国・筑後国(福岡県)・肥前国(佐賀・長崎県)の七国に地頭職を保有していた。これらの鎮西の所領所職は、子の中原季時や養子の大友能直に譲られている。大友氏が豊後国に有した所領所職はそれであるとされている。
『図田帳』に「殿」と付されているのは他には「右馬助殿」の例があるが、『図田帳』作成者が関東御家人中原親能の正体を知った上で特に使用したと思われる。
宮崎県史 通史編 中世 p147〜148より引用
中原親能が地頭を勤めた荘園
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臼杵郡 |
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臼杵郡 |
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児湯郡 |
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前掃部頭殿と掃部頭殿は同一人物とされている。
☆大分歴史事典にある中原氏についての記述はこちらから。