#### 岐阜県における『つや』 ####

 岐阜県大垣にほど近い津屋という地名について関することを
こちらで取り上げてみようと思います。

津屋(南濃町)

 揖斐川中流の支流津屋川の右岸に開け、養老山地の東麓に位置する。

 急峻な山地部と濃尾平野の接点に当たり、関ヶ原方面から桑名へ抜ける伊勢街道が通っていた。地名の由来は、古くは当地が伊勢湾に臨む港であったことによるという。三河国猿投神社古図にも海浜に津屋の名を記す。津屋川沿いの水田地帯はしばしば冠水による被害を受けた。


[近世]津屋村

 江戸期〜明治22年の村名。美濃国多芸郡のうち。大垣藩領。村高は「慶長郷牒」「正保郷帳」共に520石余、「天保郷帳」951石余、「旧高旧領」520石余。新田に中島と等乃原がある。村内を伊勢街道が津屋川に沿って通る。元禄年間の村況は、村の東方、津屋川に沿って堤1,085間、土橋2か所あり、大垣宿・赤坂宿の伝馬役を勤め、特に椿油用のツバキの実4升の納入を命じられていた。藩の御用林がある。また、村民はヌカ・ワラ・ナワ・ムシロを作り太田郷蔵へ納入した(津屋村御絵図方差出帳)。
 分化3年の津屋村・津屋中島・等乃原新田の人口は計1,066・戸数239(村明細帳)。神社に村鎮守神明社・諏訪明神・白山権現など7社、寺院に浄土宗福聚山慈眼寺・真宗東本願寺派本慶寺・同宗西林坊がある。慈眼寺には黒印地3石余あり、慶長年間高須城主徳永左馬助が再興したという。本慶寺は寺領2石5斗で、境内は関ヶ原の戦以前、当村領主高木八郎左衛門の屋敷地で、内堀・外堀をめぐらしていた。
 明治4年岐阜県に所属。明治14年の当村は東西1里10町・南北16町40間、総反別418町余、戸数246・人口1,121。小学校は東陽学校と登高学校の2校。舟は川船14艘・瀬取舟58艘。瓦窯1か所。物産は米約352石・大麦約160石ほか、綿約1,520斤・薪約2万束など。当村より岐阜県庁へ9里20町、多芸・上石津郡役所へ2里4町の道程(町村略誌)。明治22年下多度村の大字となる。


[近代]津屋

 明治22年〜現在の大字名。はじめ下多度村、明治29年からは南濃町の大字。
明治26年津屋尋常小学校、大正元年下多度尋常高等小学校開校。同5年下多度郵便局開設。同8年養老鉄道(現近鉄養老線)大垣〜桑名間全線開通、美濃津屋駅開設。明治22年〜29年まで下多度村役場があった。明治30年一部が養老町一色となる。


津屋川つやがわ<南濃町・養老町>

 県西南部を南流する川。養老山脈北部の養老の滝を持つ滝谷を源頭部に、さらに南の断層崖を流れる多くの谷を集めて南に流れ、海津郡南濃町駒野付近で揖斐川右岸多芸輪中の水を集めた五六川と合流、揖斐川と背割堤で並行して山崎付近で揖斐川に注ぐ。養老町飯ノ木以下の河川法区域延長約14km。養老山脈東麓の扇状地扇端の湧水帯を流れるので水量は多い。中世のこと牧田川は養老山地の裾を流れ、その後東に流路をかえたため津屋川は牧田川とは別の川となった。中世末から近世にかけて勢至の鉄座が栄えたのは津屋の舟運によるというし(養老郡誌)、舟見・津屋・志津など港の地名と思われるものがあることからかなり舟運に利用されていたと思われる。平治の乱に敗れた源頼朝は大垣市青墓から尾張へ逃げる途中この津屋川を下っている。明治末には鷲巣の土場まで舟がのぼり、米・木材を降ろし常滑方面から土管・かめなどを運んできた。しかし土砂が堆積し次第に舟は通れなくなった。津屋川の左岸、東側には、養老山地からの谷川が輪中へ流れるのを防ぐ輪中堤が築かれている。

by 角川日本地名大辞典

津屋城(南濃町)

現在地:岐阜県海津郡南濃町津屋字寺屋敷(現在の本慶寺境内)
    (旧)美濃国多芸(タギ)郡津屋村
形式 :平城
城主 :高木八郎左衛(ェ)門正則 明応元(1492)年秋戦死
    高木八郎左衛(ェ)門正家 慶長5(1600)年8月自刃戦死
時代 :文明(1469〜1486)年代のものと思われる。

現在は本慶寺の境内となっている津屋城跡は、広大な土地の中に塹壕の形がみられ、当時としては勢力をもった者の城と思われる。しかし史実では養老郡史に僅かしかみられない。
津屋城主・高木八郎左衛門(八郎兵衛)は、駒野城主・高木九郎左衛門(九郎兵衛)、高須城主・高木十郎左衛門(十郎兵衛)の3人兄弟と伝わっている。
後世、旧駒野城主から旗本になり多良城主となる高木氏は、系譜によると津屋城主と高須城主との近親関係は一切みられない。これはどうやら関ヶ原の合戦で、津屋城主と高須城主の後裔が石田三成側につき、多良城主は徳川側で旗本になった事から、同系とは記せない理由があったもよう。家紋は両家とも『丸之内左違鷹羽』。

天正12(1584)年4〜8月、秀吉軍の稲葉伊予守通朝(一鉄)・右京亮貞通・彦六典通の父子に占領されていた。

 

地図をみながら少々補足すれば、
岐阜県と三重県の県境に南濃町津屋はあり、R56が通っています。
近鉄養老線には美濃津屋駅があります。
そのまま国道沿いに北へ進めば養老渓谷に向かいます。
揖斐川寄りに進んでみれば、大垣方面。
川を下ると行き先は三重県の伊勢湾。
揖斐川へは少々距離があっても、津屋川が直ぐそこに流れています。

またこの南濃町は、薩摩藩と深い繋がりがあるようです。

宝暦4(1754)年、薩摩藩は宝暦治水(伊勢・美濃・尾張)という砂防工事にかり出されました。
その工事は南濃町の羽根谷落口揖斐川の川浚え、山崎谷砂利除なども含まれており、多くの薩摩藩士が殉死するほど相当困難な事業だったようです。


大垣の津谷さんのご先祖に、綿屋のマンペイと呼ばれる方がいらしたそうですが、
関連がありそうな話がありましたので、簡単にですがご紹介します。

松坂や伊勢の商人たちが栄えた理由の1つに木綿があります。
木綿は全国に広く行き渡るようになったのは江戸時代に入ってからで、それまでの絹や麻よりも安価で品質も良く、松坂木綿という呼び名で知れ渡るようになったとか。

如何でしょうか?
綿屋とは、木綿の販売をしていたマンペイさんの屋号
という可能性もあるような気がします。
伊勢方面から往復していた商人が、移住したのかもしれませんね。
可能性の1つとして、ですが。。。。

しかし、津屋という地名と津谷という名字が
どう関係しているのかは、これだけではわかりません。um....
もしかしたら、伊勢方面からの移住とかではなく、
反対の可能性もあるやもしれませんし。
どうなんでしょうね。


 Feb.2002