津谷と津屋?

 

室町時代より貨幣経済が発展してからというもの、
姓に商売を意味させる者が現れ、その中に
○屋というのがあるそうです。
この
○屋には『扱っている商品』を意味する場合と、
『自分の出身地をつけたもの』の2種類があるそうで、
明治時代入ってから
とした場合もあるとか。

さて、我が津谷家が元々津屋だったかは定かでないが、
岐阜県立図書館に南濃町にある津屋城について問い合わせたところ、
肥後国の豪族に津屋氏という記述があるとの情報を頂き、
以下に引用しているのが件のものです。

 

 

津屋 ツヤ ツノヤ

 和名抄、阿波国板野郡に津屋郷を収め、都乃也と註す。
 その他、美濃、陸前、陸中、筑紫等に此の地名在す。

 1)阿蘇氏族 肥後国の豪族にして、託麻郡健軍社の大宮司たり。
   阿蘇系図に「惟次−惟義、弟惟盛(津屋三郎)−惟經(津屋十郎)」と見ゆ。
   惟盛は嘉禄二(1226)年八月四日、父惟次の讓を受けて、健軍社大宮司となる。
   安貞二(1228)年六月六日の北條泰時袖判文書に
   「阿蘇三郎惟盛所に下す、早く得永私領田畠の内・勢多村(四至往古有限)、
   横手村(田地拾餘丁、四至往古有限)、健軍社大宮司職、井に南郷内久和波多貮町、
   門田(←巨の部分が七?)段、屋敷料赤池陣の事。右・親父大宮司惟継(旧漢字)が
   嘉禄貮年八月四日の讓状に任せ、惟盛に領掌せしむるの状・件の如し、以って下す」と。
   また文永三(1266)年九月十六日北條宗●(←束に負で一文字)袖判文書に
   「肥後国健軍社大宮司職の事、代々の御下文の旨に任せ、津屋三郎入道惟盛法師に、
   安堵せしむべきの状・件の如し」と。

   次に弘安元(1278)年六月二十四日北條時宗袖判文書に
   「津屋十郎惟經所に下す。早く肥後国阿蘇社領内、南郷勢多村、井に久和波多貮町、
   門田(←巨の部分が七?)段、屋敷料赤池陣を領知せしむべきの事。
   右親父健軍社大宮司惟盛が知行所也。而して年來・宮仕の忠に依り、惟継(旧漢字)
   に安堵領掌せしむべき状・件の如し」と。
   また弘安二(1279)年六月文書に「肥後国健軍社大宮司職の事、代々の御下文、井に證文、
   完道去状等、拝見候ひ了んぬ。此の旨を以って披露仕るべく候。先は先例に任せ、
   其の沙汰を致さしめ給ふべく候。且此の様(?)、代官の許に申さしめ候ひ了んぬ、
   恐々謹言。弘安二年二月二十九日。左衛門尉景房版。小札執事御状案正文は、
   御使(廣澤藤三郎殿、神田五郎三郎殿)持ち為さる」と(事蹟通考)。
   近事社人を今手氏と云ふ。

 2)雑載 大館日記に「下津屋三郎左衛門尉え、以使者(松本平兵衛尉)云々」と見ゆ。

ヲ姓氏家系大辞典 p3829より引用

 

健軍神社 メモ
熊本県熊本市健軍本町13−1

欽明十九(558)年、
国司によって阿蘇大神を
迎え入れる為に建てられたという。

 

さて、阿蘇氏とはなんぞや?という疑問が出てきた訳ですが、
それに関しては熊本大学附属図書館webに
阿蘇家文書という資料がありました。
そこから健軍神社の阿蘇氏についての記述をまだ見つけられずにいます。
が、系図にはしっかりと上記にある阿蘇惟次以下の名前が記されていて、
惟盛と惟經(経)には津屋と記されていました。
また惟盛(健軍神社大宮司)の兄・惟義の子孫の惟村は肥後守護、
その兄弟・惟武は日向守護とも記されています。
津屋の名が阿蘇氏から日向に入ってきたとしたらこれはもしや、海民説を覆す事態に????