カリンの系図

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ヲ何故か、遺伝という言葉に子供の頃から心惹かれてました。

 思い起こせば小学校中学年から、夏休みの自由研究のテーマに遺伝を選び、
図書館から仕入れて来た『三毛猫のオスが少ない理由』などをやっていたような。
 最近ではカリンに、私の足の人さし指が親指より短いことに気付かれてしまい

「とうとうばれてしまったか、はっはっは!」
「これはね、劣性遺伝なんだな。」

と答えてはみたものの、彼女はとっとと別の遊びへと心が散っていました。

 私たちはよく似ているので、「あ、これは私の縮小コピーです。」
(島では「ゼロックスコピー」と云えば、伝わります。笑)と紹介しています。
最近は「コピーというよりクローンみたい。」と笑われるのに、
はたして彼女の足の人さし指は私のパーツと同じではないんですね。

 系図と云えば皇族や士族、また豪商や豪農などの家に残されているモノだと、
皆さん思われるでしょう。確かにそれは、家制度を重んじた時代に名を残す余裕や義務を
負っていた家に存在するのかもしれません。
そして、その余裕や義務を負わなかったそれ意外の家は、菩提寺にて保管されている過去帳を
見ればその家の系図はあらかた判明するんでしょうね。

 さて、そんな余裕なんかなかったらしい現存するご先祖さんたちは、

「家系図?そんな事を調べてどうする?(延岡弁を私には書き写せられない)」

と、いともあっさり応えてくれたりしました。でも、私と年齢の近い上の世代の協力があり、
津谷家の除籍謄本を得てから、

「まぁお前がどうしても知りたいなら、自分たちがわかる範囲でだけ話してやろうかね。」

 それから私は全く知らずにいた事実を、除籍謄本を元に知る事となりました。
と云っても、その事実は私にとって大きな問題ではなかったんですけどね。

 

 我が津谷家の本家は、延岡市の中でもどん詰まりのような地にあります
(私が勝手に思っているだけだと云われるかも?)。
延岡市街から大きな橋を渡り、うねうねと細い海岸線を暫く行かなければなりません。
もちろん海岸線に沿って大分に行くには、もう暫く距離があるのですが、
津谷の長老たちの青年期までは多分、本当にどん詰まりな地だったはずです。
 そこは目前に日向灘、そして裏手にはすぐ山が迫っている地。
私はそこで生まれ育った訳ではないので、年に1回か数年に1回の訪問しかしていないのですが、
一番古い記憶である小学校低学年の夏休みの思い出から、その地をちょっとご紹介します。

 

ヲ子供の頃の思い出

 一番海に近い民家と堤防の間はやっと片側1車線ほどの距離しか空いておらず、
祖父母の家は堤防に向かった彼等の弟の家の間に、もう1軒あるだけの距離でした。
その家を訪れると始めにするのが『かまどの神さんへのご挨拶』
当時はまだかまどを利用していたんですね。
 庭には1本の梅の木があり、そこによじ登って遊びました。そして、当時の私にとっては
大きめの納屋があり、足許には海も近いことから時々驚くほど大きな蟹が横切っていて、
布団の上をフナ虫がうろうろする環境です。
 怖かったのは外にある五右エ門風呂。何せ風呂よりちょっと高い壁に屋根があるだけで、
柱以外に目線で見えるのは納屋や母屋の風景。夜、蝋燭を立てて夜空を眺めながら、
踏み板を外さないように気にしながらの入浴は、怖がりの私には相当なインパクトを与えてくれました。

 部屋の壁一面には、祖父や叔父たちの釣り道具が掛けられ、
カツオの1本釣り競技で頂いたという賞状を、大事に額に入れて飾ってありました。
(確か、教育勅語も掲げられていたような記憶も。。。。)
 ここの男性たちの殆どは、兼業漁業と申しましょうか、サラリーマンをしながら空き時間に
各々の釣り舟で漁に出るヒトばかりです。お陰で食事はお魚三昧。。。。
(成人するまでナマものを食べられなかった私には、とても酷な場所です。)

 堤防沿いでも行けるけれど祖父母の家から裏に抜け、生まれたばかりのカタツムリなんぞを
観察しながら右に折れ、細い道を大叔父の家方面に向かう途中、左手の山の斜面下にお墓があり、
そのまま暫く進んで辿り着いた先に、目白を何羽も飼っている大叔父宅がありました。
その家から堤防に出てもっと奥へ向かうとなると、上り坂になっている斜面を行かなければならない
気がして、とてもじゃないけど冒険なんぞ出来ません。

 母のイトコであるお兄ちゃん(2才上だったのは最近わかった事でした)にくっついてまわり、
一緒にそこら中でミンミンないている蝉をごっそり捕まえたり、友だちと遊ぶのについて行き、
迷惑を掛けたかもしれません。
 彼のお姉さんに「内緒だよ♪」とインスタント焼そばを作ってもらったのは、
去年ハトコに話すまでずっと内緒のままでした(笑)。

 大人の話しと云えば、大魚とやりあって釣り上げた時の話しと押し入れから出して来た
勲章の説明、第2時世界大戦での暗い暗い思い出がたくさん。
後に、藤江の義祖父から聞いた彼の戦中の話しが、彼等の記憶とはあまりにもかけ離れているのに
驚きました。何故なら、当時はやはり生死の狭間にいた筈ですが、
義祖父の場合、物資を前線に運ぶのを任務としている隊にいたので、前線より先に行き過ぎ、
帰国を躊躇うほど(笑)現地の人間たちと交流を深めてしまったらしいから。
 しかし、津谷家では長子である私の本当の祖父と、すぐ下の弟がニューギニアで戦死し、
その次ぎの弟である現在の祖父(祖母は義弟と再婚)は、元々体が強くはなかった上に
戦地で上官から理不尽な仕置きを受け、未だにそれを引きずっている。
 その次ぎの弟は家に戦死の報が届きながらも、暫くしてから家に戻れたにも関わらず、
怪我をして片目を失っていました。
しかし、ひっそりと過ごさなければならない病弱な祖父の家から離れると、
他の大叔父たちの家は私にとって今も楽しい場です。
 余談ですが、病弱な祖父を遠巻きにしながらも、私は子供心に思っていました。

「ウチのじいちゃんは、なんてかっこいいんだろう♪」

成人してから訪ねた時、若い頃の写真をみせてくれるように頼みました。
祖父は照れながらも僅かな写真を探し出した後(今、本人の言葉をちゃんと思い出せないのですが)、
あんまりにも皆が容姿をほめるので、恥ずかしくて写真もよう撮らなかったから、
本当に数枚だけだと云いました。曾祖母もそんな息子が可愛くて随分甘やかしていたらしく、
だからいつまで経っても病弱なんだと、彼の兄弟たちが云うのは嫉妬かも(笑)。
いえ、今はただの年寄りですが、昔は他の兄弟と違い細身で目鼻立ちのキリリ!とした顔でした。
これを云うと、皆が「?」ですけどね。(^.^;)

電話が入るとスピーカーで呼び出され、ダッシュで近所の心太屋さんまで行き、
食材を荷台に積んだトラックが巡回してくる。
多分、昭和40年代後半までそういう土地です。

 祖母の実家である新名家は、市街地の方へしばらく車を走らせます。
長女である私の祖母が津谷に嫁ぎ、跡継ぎを亡くしたので彼女の妹が本家を継いでいました。
ベコ(牛)のいる家と呼んでいた記憶があります。でも、1頭だけですけど。
 大叔母の夫は子供心に不思議な人で、もう随分な年齢の筈なのに
髪は黒くいつもきっちりとしていて、細身の姿勢のよい人でした。
近衛兵として騎馬隊にいたとか聞いてましたけど、馬乗りはいつ迄経っても姿勢がよいのかな?
随分後になって、彼の黒髪は染めていたらしいと聞きましたが、洒落者だったんですね。

 

 さて、幼き日の思い出話しが長くなってしまいましたが、そんな津谷家の長老たちは、
今もひっそりと暮らし続けています。
特に祖母などは、延岡市内から一歩も外に出た事がないらしいという噂です(多分、真実)。

 彼等は奥まった地で、ご先祖さんと同じくひっそりと暮らしているのだと思っているようです。
ルーツ探しを始めたきっかけは、ルーツ探しのルーツでも書いていますが、
私自身も津谷家が奥まった地で始まり、今尚そこに暮らしているのだと思い込んでいたのに、
「遠く離れた秋田に同じ名字の人が沢山いるらしい。」という話しに驚いたからでした。
 今、このページを開設して1年と数カ月経ちますが、まだまだ少ない出合いではあるけれど、
頂いた情報によって調べているうちに、不便だと思っていた場所がそうではないらしいと気付き、
「私たちのご先祖さんは、結構国内をうろうろしていたみたいだから、先祖の土地を守るとか、
固執するとか、ここで静かにしていようなんて思わなくてもいいんだよね。」と、
長老たちに伝えたい思いで一杯です。

 

 私たちも縁あってサイパンなんぞで現在暮らしているわけですが、
それまでも落ち着かずにうろうろしている方でした。
遠い先祖が自分の気分で動けたのか、それはわかりません。
しかし今の私たちが思うほど、昔の暮らしは窮屈ではなかったはずです。
現在より危険な航海であったとしても、彼等は私のうろうろレベルなど ケッ!
と吐き捨てるほどに移動をしていたのだと。

 

 家系図や先祖についての伝承がある家は、それ自体を家のプライドとして子孫にも
伝えるのでしょうし、普段そんな事は気にしない素振りをみせている人でも、何気に
「ウチは○○の子孫なんだってよ。」と発言し、
幼い頃に刷り込まれた情報を潜在意識に保ち続けているでしょう。
 家系図があり、それを手掛かりに調べられるなんて、楽でいいな、
とぼやいたりもしますけど、それはそれで私たちのルーツ探しは楽しくもあります。
とにかく僅かなヒントから、無理矢理なこじつけと推理のみで突っ走っている状態ですから。
(訂正:あまりにも進行が鈍いので、とても走ってはいないですね。亀にも劣るかもしれない。。。。)

 最後に、ルーツ探しをしていると云っても、子供の頃から親類とは物理的にも距離が
ある事に慣れた私には、今後も濃密な親戚付き合いをする事は不可能だと思います。
きっと私の知りたい事はもっと遠い時代の事で、自分の遺伝子がどこからやってきたのか?
なんだと。
まぁそれを知るには20世紀も残り1年となりますし、その間随分いろんな血が混じって
いるでしょうし、到底無理なことですよね。しかし今世紀の先祖の足取りもわからなくて、
そんな遠い時代に思いを馳せる事など出来るはずもなく、まずは地道?に、
相変わらず亀にも劣るスピードではあっても、ライフワークとしてルーツ探しを続けるつもりです。
そしてカリンが、しごくマイペースな私だけど、ここに書いている事について理解して
くれる日がくるのを願います。
(だから、ちゃんと日本語のお勉強もしてちょうだい!)

Oct.'99

 

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