延陵世鑑に登場する新名氏

 

■諸綱 土持三郎 の項より抜粋 

建武三(1336)年尊氏将軍の手に随ひ京都三条河原に於て戦死す。按ずるに諸綱は左兵衛尉栄宣(土持家六代・土持左兵衛尉栄宣)の舎弟ならん。然らざれば諸説齟齬(そご)すること多し。

吾田の荘に猿楽の始まりしは文保元丁巳(1317)年なり。恒富村田中薬師の前の定舞台出来たり。されども衣装は麻布体のことなれば見物するもの至て少なし。是に因って見物に参らざるものは男は材木一本女には布一端の科役を定められしかば諸人毎月役目にて見物に出ぬ。斯くして元弘二(1332)年壬申秋九月例の猿楽あり。新名越前守は兼て狂言の役なりしかば座頭狂言を致しけるに芝居より殊の外笑ひぬ。爰に土持三郎の祖父に土持五郎兼重と云ふ人あり。此人年老い両目盲(めし)ひて見えざりけるが心に思ひ給ふは盲目の見苦敷あればこそ人もかく笑ふらめ所詮活て面目なしとて薬師堂の後竹薮の中にて切腹なり。其後新名方様々の祟りありき。因て兼重夫婦並娘三人を御霊の宮と崇め松山善神王の社内に宮居あり、祭りは霜月十六日也、是は新名党より祭る。

 

浜砂町というところに
『新名のお祭りがある』と聞いていますが、
土持五郎兼重氏の切腹によって
新名氏側に祟りがあり、それを其れを慰める為に祭りを開いた
という上記と一致しているのか、、、、どうでしょう?

 

■十一代 宣綱 土持孫太郎 法名慶阿 の項より抜粋

宝坂の城災難多く是有るによって松尾の城を築き移り給ふ。文安元甲子(1444)年二月より経営はじまりて三年にして成就す。天正六戊寅(1578)に至って百三十五年巨城す。岡富松山の境にあり。戸於郡の城主伊東祐尭は三須石見守が辞(ことば)の如く自然と宮崎諸県を掠め奪ひ頗る勢を振ひける折しも畠山上野修理亮七郎源義顕は死去しければ大いに悦び宝徳三(1451)年小櫛若狭守を上洛せしめ日向一ヶ国の大守の御判形将軍義満公に願ひ則ち日向一国の判形を賜り下向せらる。財辺の土持左衛門尉影綱最初に是を聞き急ぎ県の土持宣綱に告知らせけり。土持方では大いに怒り伊東祐尭不義の働きいはれなし。宮崎諸県を自然に掠め奪ふのみか剰(あまつさ)へ上洛し日向一ヶ国の大守の判形を願ひ賜る事是以て讒言(ざんげん)なるべしと大いに腹を立て急ぎこと鬱憤(うっぷん)を散ずべしとて先づ新名石見守を財辺に差遺し続いて土持孫太郎出陣也。伊東も軍兵を引卒し昼時に発向す。

去る程に康正二丙子(1456)年十一月より軍始まり合戦八ヶ度也、伊東方一度の勝利なく伊東叶はずと思ひけん、色々の扱を入和睦になりけり。互に神文を書いて奈古八幡の社内に籠らる。其後吾田の土持は帰陳なり。この合戦に財辺衆戦死の輩は黒岩備中守、同肥後守、同左衛門四郎、江藤丹後守、田中対馬守父子、似田彦左衛門、野中新左衛門、等なり。然るに又誰云ふとなく双方神文を破り謀叛の企てありと沙汰あり。伊東祐尭安からず思ひ奈古八幡の神文を取返しまた合戦始まる。吾田より新名の輩発向す。長禄元(1457)年丁丑七月十九日の合戦に土持左衛門尉影綱小浪川昼時にて戦死なり。其他戦死の輩は高城の城主土持美作守、黒岩左衛門五郎、清水治部太夫、長友周防守父子、高井左京、吾田衆には新名甲斐守、同因幡守、富山若狭守、海田筑後守、甲斐和泉守、大貫但馬守、新名石見守、新名但馬守、同弥五郎等なり。されば高鍋の城も落去して財辺土持 家爰に亡びぬ。長禄二(1458)年戊寅正月宣綱逝去なり。

 

この合戦を後に、伊東氏は土持氏の領土だった地を次々奪い取って行き、
明応五(1496)年丙辰八月二十九日に夏田にて再度合戦があり、
その時は伊東氏が侍大将を打ち取られた為引下がった。

また九月十二日に伊東氏が再度押し寄せた時、
現在の笹目橋附近と思われる小雨潟(ささめがた)にて
土持氏側の勇戦によって伊東氏も多くの兵を無くし
その後、高千穂三田井親好によって
両者和睦。

しかしその後
土持氏は島津家・薩摩へ、
それに続いた新名氏
他に移動した新名氏
吾田(あがた・後に県とも書かれる:現在の延岡)に居続けた新名氏

現在の延岡にて発生したと思われる新名氏は
ちりじりになっていった様です。

 

 

延陵世鑑 白瀬永年 著 松田仙峡編 より

延岡市立図書館にて所有されていますが、著者自筆の延陵世鑑が西臼杵方面から流れ、現在は大分県にあるらしいとの事。